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Report & Information 2008年3月

GLOBAL (森重行敏)

【BOOK】日本語の奇跡

山口謠司著 (新潮新書 本体680円+税)

 ひらがなとカタカナの歴史をコンパクトにまとめた書。五十音順はサンスクリット研究から生まれた論理的な世界でカタカナと結びつく一方、ひらがなの「いろは」は仏教思想を背景にしながらも情緒的な世界を形作る。このバランス感覚こそ日本文化の奇跡と本書はいいたいようだ。和歌は決してカタカナでは書かず、また、わざと濁点を打たずにあいまいな表現をすることも一例にあげている。ところで、自国語を外来の漢字で表記することに成功した奈良時代の万葉集が、その次の平安時代になって一時期読み方が分からなくなった時期があるという事実は驚き。ある意味で、江戸時代の古文書を我々が読めないのと同じ状況なのかもしれない。音楽の世界でいえば邦楽がわからない現代人とも共通するのだろう。もはや「いろは順」の辞書は存在せず、多くの若者は「いろは」を正しく最後までいえないだろう。

 本書の最後で著者は古典芸能こそ、論理ではなく情緒の重んじられる最後の砦であると指摘している。確かに邦楽を五線譜で記述するとある種の違和感が残る。流派ごとにさまざまな楽譜が存在する邦楽の世界も、やはり日本ならではと納得するしかないのだろうか。

【BOOK】源氏物語と音楽

中川正美著 (和泉書院 IZUMI BOOKS 本体1,500円+税)

 初版は15年以上前とのことだが、昨年新装で再登場。源氏1000年の今年は他にも関連本が次々と企画されている。音楽と文学とは切っても切れない関係であるはずだが、残念ながら邦楽研究と国文学研究とは、なかなか接点がないようだ。古くから歌謡の研究は盛んだが、多くは書かれた文字だけの研究であったり、一方の邦楽研究は洋楽的方法論だけで行われがちであった。本書は源氏物語の各巻に登場する楽器やその記述のされ方、物語の中での役割を考察したもの。

 当時の音楽といえば雅楽ということになるが、特に琴、和琴、箏、琵琶の四種の弦楽器が絶妙の使い分けをされている事実は新発見。特に源氏物語全体が、他の物語とは違って、音楽を神秘現象としてではなく、登場人物の性格描写のために使用しているという、ある種の近代性をもっていることに納得。ちなみに江戸時代になっても箏曲のかなりの題材が源氏物語であることも忘れてはならない事実だろう。

【DVD】雅楽──宮内庁式部職楽部

(下中記念財団 全8巻 132,000円)

 10年前にVHSで発売されたものをDVD化。総集編や戦前の記録映画のほか、別の企画で録画されていたものなども追加され、堂々たる内容。久米舞や東遊など貴重な内容も含まれ、雅楽界にとっても後世に残る金字塔となった。発売記念割引や1巻ずつのバラ売りもあり、有料貸し出しの便宜も図られる。雅楽のデータベースとしても活用可能。

SCHOOL (佐野靖)

【講演】黒田恭一氏による記念講演「音楽の鑑賞と評論」

(〈音楽教育史研究〉第10号より)

 音楽教育史学会第20回大会(2007年7月)で行われた黒田恭一氏(音楽評論家)の講演内容が、学会誌〈音楽教育史研究〉第10号に掲載されている。その内容は、音楽科教育にとっても大変示唆に富むものである。

 長年、音楽界を見続けてきている黒田氏は、近年の興行主義、商業主義のクラシック音楽への浸食に対して強い危機感をもっている。氏によれば、今のオペラブームでも、ショービジネス的に作られた話題を拠り所に、いわば「消費者」として聴き手が演奏や演奏家を「裁く」ことが起きている。「聴いてやる」的な態度の聴衆が演奏会場をトゲトゲしい場としたりもする。字幕付き歌曲リサイタルのような過剰サービスが求められる。こうした状況を憂慮し、警鐘を鳴らす氏の言葉、多くの音楽家と直に触れ合ってきた経験から紡ぎ出された言葉には、演奏家と聴き手とのかかわり方をとらえ直す方向が明示されている。

 たとえば、「僕は作曲家に対して責任があるにもかかわらず、たとえばライブで録った場合、その演奏は必ずどこかにミスが起こる」といい、それを避けるためにスタジオで録り続けたカラヤンには、使命とともに聴衆への「リスペクト」があったという。また、ボサノバのジョアン・ジルベルトのコンサートの聴衆は、字幕付きの『冬の旅』を聴いている人よりも、「もっと集中して音楽と向かい合っていたのではないか」と感じさせるほど真剣に耳を傾け、「聴かせていただくという気持ち」が会場中に満ちあふれていたという。

 すなわち、「音楽を奏でる人とそれを聴く人の関係というのは、本来、聴く方は聴かせていただくと思い、演奏する方は聴いてもらうと思った時にはじめて、そこに大きな交流が生まれるのであろうと思うのです。そこに商業主義、コマーシャルリズムが入り込んだために、付け入られる隙が聴衆の側にできてしまったのではないか」や、「僕たち聴き手の側にいる人間の演奏している人たちへの本気の尊厳、リスペクトがかつてのようではなくなって、もっと娯楽として聴くようになってしまった」という表現に、氏の言わんとする問題の本質が集約されていると思われる。さらに、バーンスタインらのエピソードに触れつつ、こう思いの丈を述べる。「僕らは音楽を聴いて、そこで何を感じるのかというと、結局作曲家もそうですが、演奏してくれる人、いずれにせよ人間を感じるのだろうと思うのです。人間をその抽象的な音の中に感じるというのは、かなり聴き手として集中しないとできない。それを感じ取って、本当にすばらしい人間に触れたときに、本当の感動を味わえるだろうと思うのです」と。しかもそのためには、「演奏してくれる人への十分なリスペクトと、聴くということに対しての十分な集中度をもたないとそこまで行けない。そこまで行ったときに、音楽というのは本当にほかの芸術では代えることができない、すばらしい感動をあたえてくれると思います」。何と含蓄のある言葉だろうか。

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